強くてニューゲーム

 小さなシャーロックに手渡されたタオルをありがたく借り、顔についた血糊を綺麗に拭き取る。工藤邸に戻り新たな顔を作れば一先ず大丈夫だろう。
「あら?」
「どうしたの有希子おば…お姉さん」
「カラーコーンがあるの。ほら」
 行こうと思っていた道には赤いカラーコーンが4つ並んでいた。その先は特に何もない。こんな所に何故。
 コツン、と車に何かが当たる音がした。勿論正面には誰もいない。工藤有希子はバックミラーに人影を見た。
「車の後ろに誰かいるわ!」
 すぐさまコナンは車を出た。だが車の後ろには既に誰もいない。
「!これは…」
 車の後ろ、道路にポツンと置かれていたのはあの缶コーヒー。まだ近くにいるに違いない。だが赤井が車にいる状態で探すのは得策ではない。
「ボウヤ、何があった」
 車から出てきた赤井に拾ったそれを見せる。赤井は目を見開いた。
「缶コーヒーだよ。…このカラーコーン、この人がやったのかもね」
「……底には何が書いてある?」
「赤井さん、この缶コーヒー知ってるの!?」
「ああ。…話は車でしよう。あまり長居は良くない」
 赤井に言われコナンは再び車に乗り込む。そして缶コーヒーの底を見た。
「”Relatively serious this time”」
「『今回は比較的本気』、か」
「なぁにその缶コーヒー」
「蘭姉ちゃんが前に襲われかけた事件あったじゃない。その時に助けてくれた人が、蘭姉ちゃんに渡した缶コーヒーと同じなんだよ。底に英語が書かれた、ね。赤井さんもどこかで缶コーヒーを?」
「………」
 詳しく話せば自らの失態を話すことになる。どう話したらいいか、と赤井は思案した。その間をどう捉えたか分からないが、コナンは自分の持ちうる情報を提示した。
「その人、助けるときに左手首に怪我をしたんだ。あれからまだ半年くらい、怪我は完治したとしても傷跡はまだ新しい筈だ、って新一兄ちゃんが言ってたんだ。赤井さん左手首に怪我をした人見たことない?」
「残念ながら無いな。怪我の具合は分からないが、出血したとしたら血液型くらいは分かるんじゃないのか?」
「それが…相当着込んでたみたいで血が滴らなかったんだ。新一兄ちゃんの話によると、左手首に包丁を刺したままどこかへ行っちゃったみたい」
 左手首に包丁、刺さったまま落ちずに動くということは相当深く刺さった筈。それも貫通するくらいには。
 だがそれだけの怪我であれば病院くらいには行くはず。だというのに何も分かっていない様子から病院も調べた上で何も情報が見つからなかったのだろう。
「……灰原も缶コーヒーをもらったらしい」
「何?」
「死なれたら困るって書いてあったらしいよ。勿論英語で」
 宮野明美は殺しておきながら妹は死なれたら困るのか。まるで組織の人間だ。赤井の中で缶コーヒーの人間は組織の人間とイコールだった。宮野明美を殺した張本人だと思っている。ただでさえ助けられなかったことを悔いていたのに、自分のライフルで射殺されたと思うと憎くして仕方がない。
「そいつがどういうつもりなのか分からんが、必ず捕まえる」
 コナンにとっては恩人ともいえる缶コーヒーのヒーロー。赤井さんの言葉に憎悪を感じたが気付かないふりをした。


「彼のことは、残念だったよ」
 電話越しに聞こえた声は間違いなく赤井秀一の声。では目の前の、沖矢昴は別人なのか。いや、推理が間違えているわけではない。どういうことだ。混乱する頭を落ち着かせ彼の言葉を反芻する。そこから分かるのは、スコッチの生を知らないということ。
「…それを言うということは間違いなくあいつは死んだと思われているんだな」
 3年前、スコッチは死んだと組織は判断したが、スコッチのNOCバレにより自身もNOCを疑われていた降谷にはその判断が真実か見極める必要があった。勿論直ぐに見極めたが、何だかんだ諸伏と良い関係を気付いていた赤井はどう見たか、今分かった。やはり死んだと思っている。
「それはどういうことだ」
 知る必要のないことだ、そう言おうと開いた口は正反対の言葉を出した。
「あいつは生きている。……仮初の恋人に置いてかれた、彼女もね」
 息を飲む音が聞こえた。だがこれ以上は言う必要はない。十億円強盗事件にあの小さな探偵が関わっていると知っていたから、きっとFBIと手を組んでいるだろう彼に向けた言葉だ。決して赤井の為ではない。
「あいつも彼女もどうして死なずに済んだのか、それを知っているのは…あの缶コーヒーだけだ」
 返事も聞かず電話を切る。さて、赤井は缶コーヒーを知っているか。探偵事務所に置かれた空の缶からあの小さな探偵は勿論知っているだろう。
「沖矢さん、すみません僕の勘違いだったようです。夜分遅くにすみませんでした」
 沖矢に謝罪し工藤邸を出る。FBIが缶コーヒーの情報を持っていたなら、あの少年を通してこちらの情報を手に入れたがるだろう。
 この3年間、正体不明のその人物を探すため組織にも探った結果、何と幹部全員が反応した。触れてほしくなさそうでいて「何か知っているのか」と情報を求める様子は、恐らく自分が逆の立場なら同じ反応をしただろう。知ったのは諸伏が助かったから、だがそれを知られてしまえば自分がNOCだと、諸伏が生きているとバレてしまう。だがその正体は、何者なのか、知りたい。
「…こっちは借りが大きいんだ、FBIよりも、組織よりも先に見つけて見せる」
 愛車に乗り込み呟いた言葉は、かけたエンジン音でかき消えた。


 公安、FBI、CIA、そして小さな探偵を交えた日本における組織の壊滅作戦は、想像に反して静かに終わった。いや、静かと言うと語弊があるか。中心地となった東都では爆弾騒ぎが起きたり、それこそ狙撃による銃撃戦もあったが、それも数分の間だけだった。日本以外の拠点も次々に潰され、メディアでは報道されないが半世紀にわたる組織の暗躍は小さな探偵により終止符が打たれた。
 研究施設は全滅、コナンは何よりも求めていたアポトキシンのデータも、実物すらも手に入れることができなかった。
「ボウヤ…」
「コナン君…」
「…2人とも、そんな顔しないでよ、大丈夫。僕は…きっといつか…」
 元に戻れる、そう信じないと、自分に言い聞かせないと絶望しそうだった。手に入れたらラッキーと思った方がいい、そういった相棒の言葉が頭をよぎる。3人しかいない会議室に騒々しくドアを開け入って来たのは諸伏だった。
「おい!これ!!」
 手にしていたものを机に置く。それは何かの書類と、見覚えのあるカプセルが入った小さな小瓶。
「アポトキシン…4869…なんでこれが!全部燃えたはずじゃ」
「この紙に描かれてるのはそのデータか、諸伏どこでこれを」
「降谷の机の上にいつの間にか置いてあったのさ。これと一緒にな」
 ことんと置かれたそれは、あの缶コーヒー。底が上に来るよう置かれたため文字が見える。
「”Renown tree climbing”?」
 日本で生まれ日本の教育を受けている降谷とコナンは直ぐに意味が分かった。だが赤井は今一ピンと来ず疑問符を浮かべる。
「『高名の木登り』。兼好法師が書いた徒然草の百九段だね」
「最後まで気を抜くなってことか。このデータも薬も信じていいか分からない。あるからと言って元に戻れるか分からない」
「徒然草は読んだことないな。だが、ボウヤは諦めないんだろう?」
「ああ、ぜってえ元に戻ってやる」
 絶望の色をした瞳は希望の光を差す。それを見た3人の大人は安堵の息を吐いた。


「いらっしゃいま…赤井か」
 安室スマイルを一瞬にして引っ込める。カウンターでコーヒーを飲んでいた新一は「相変わらずだな」と苦笑した。赤井はボウヤの隣に座る。店内には3人しかいない。
「安室君はいつまでここに?」
「はぁ、今週いっぱいですよ」
 注文していないのに手際よくコーヒーを淹れ赤井に出す。つっけんどんしているが赤井のことは認めているのだろう。素直じゃない人だなぁと新一は思った。
 他愛のない会話をしているとカランと客が1人入って来た。
「いらっしゃいませ、1名様ですか?」
「…ああ、うん」
 黒いキャスケット帽を被り、白いシンプルなブラウスの上に灰色のカーディガンを羽織った女性。ズボンは黒いチノパンだ。大学生くらいだろうか。
 あまりじろじろ見るものでもないかなと新一は赤井との会話を再開した。女性はカウンターではなく新一の後ろの席に着いた。
「ハムサンドが美味しいって聞いて、あとコーヒーも美味しいとか」
「当店のお勧めですね。ご注文はそちらで?」
「うん、あー、待って、…へー、レモンパイあるんだ…これも」
「かしこまりました。少々お待ちくださいませ」
 安室さんのハムサンドももう食べられなくなるのかもしれないのか、と今更新一は気が付いた。あんな美味しいんだ、今のうちに堪能しておこう。
「安室さん、俺もお願いします」
「はは、いいよ」
「じゃあ俺も頂こうか」
「…仕方ないですね」
 ふと園子の言っていた「ツンデレ」というものを思い出す。多分安室さんはツンデレだ。
 女性客に注文の品を出した後、新一と赤井の分も出す。
「…うっま、まじか」
 思わずと驚いたように呟く背後の女性。分かる、凄い美味しいんだよなと新一も口にした。
 一般客も近くにいるので内容は世間話に変わる。蘭が、真澄が、もっぱら新一の学生生活の話ばかり。
 背後の女性が立ち上がる音がした。安室はレジに立ち会計をする。女性は出ていった。


 シフトを終えスタッフ用のロッカーを開け中に置いてあったものに目を見開く。
「なんでこんなところに…いつのまに」
 FBIも公安である自分も、元に戻った探偵もいたのに誰も気づかなかった。人が入ってくる気配も音も。
 手に取った缶コーヒーはぬるい。底には何も書かれていない。代わりにメモが置いてあった。
「…どういう意味だ?なんで俺に?」
 書かれていた意味は全く分からないし心当たりもない。安室は缶コーヒーをカバンに入れ、とりあえず登庁しようとポアロを出た。


『報告:多分終了。これで幸せになれっといいね。死神もお役御免さ』