禁書ノ記憶

美術館からの脱出

赤の間

「もうじき私の薔薇もゲットできるんすよ」
 赤い廊下を歩きながら思い出したかのように重要な情報を言った結城に「そうなのか」と続きを促す。“初めて来た本の中”と言う割に矢鱈詳しいのは、いわばこっちの道の専門家の様なものだからと判断しておく。正直色々突っ込みたいことは多いが、禁書の記憶とやらについての情報が圧倒的に少ないからここを出てからじっくり聞くことにしよう。
「穏便に手に入ればいいんですけどね」
「敵がいるのか?」
「いますね」
 面倒だから言わないのか俺に気を遣って言わないのか分からないが、説明が圧倒的に不足している結城を見ると正直部下にしたくないと思ってしまう。彼女は彼女なりに考えて動いているんだとは思う、が些か「何とかなる」と気楽な姿勢が垣間見える。本当に大丈夫なのか不安な気持ち半分、その気楽さのおかげで根拠のない「帰れる」自信がわいてくるのが半分。本に引き込まれてから自分の精神がどことなく幼くなったような気がする。そういうものなのだろうか?
 「生命の息吹」が描かれた絵画を通り過ぎ何事もなく廊下を曲がる。意味のある絵画と意味のない絵画の違いが何となくわかってきたような気がした。あの絵画は意味のない方の絵画だろう。結城が反応しないのが何よりの証拠だ。
 次の部屋に入ると出迎えてくれたのは青い大きなオブジェ。美術館にあったあのオブジェと同じものがそこにあった。
「この部屋の奥に“赤い服の女”っつー絵画があるんですよ」
 会議室で初めて会った時は他人に興味のない鉄仮面という印象だった。お互い慣れてくると徐々に敬語が無くなり他愛のない雑談もするほど親しくなった、と思う。ちゃんと敬語を使えと叱りたいのは山々だが、その余裕さにどことなく心が救われている。直接的な部下じゃないにしても立場上本来なら俺が先導切って進まなければならない。餅は餅屋、とはよく言ったものだ。結城がいなければここに来るまでもっと時間がかかっていただろう。
「その絵画、薔薇が好きなんです」
「ということは襲ってくるんだな、これを狙って」
「That’s right」
 胸元に刺された赤い薔薇、最初に花瓶に入れてから一枚も花弁は失われていない。途中何度か花瓶を見かけたが、その度結城は俺の薔薇を見てまるで回復は不要と言うかのように一瞥するだけだった。
 結城が言う敵キャラは所詮美術品に過ぎない。マネキンも銅像もやろうと思えば殴り倒せそうな気がする。…銅像は流石に痛いか。しかし結城は「触れるだけでアウト」と予め武力行使を制した。触っただけで怪我を負うとは思えない、が結局ここは本の中の世界。まるでゲームだ。…そういえば結城は何度かこの世界をゲームと表現していた。本の世界、だが元はゲームなのだろうか。この手のゲームはあまりやったことが無いから分からない。実在しているゲームで、結城がそれをプレイしたことがあるというならこの世界の情報に詳しいのも納得できる。しかしだとしたら「多くの人間が帰って来れなかった」のは少々疑問だ。それだけマイナーなゲームということか?
(この場で調べられないのが歯がゆいな)
 ポケットに入れていたスマホも隠し持っていた銃もない。手元に残されたのはハンカチだけ。ハンカチは持ち物ではなく衣服としてカウントされたのだろうか?それとも“ハンカチ”だから持っていたのか。分からないことばかりだが、一つ分かるのは考えても仕方ないということ。それでも考えてしまうのはそういう性分だからだ。
 部屋の中央にある扉は鍵がかかって開かない。また謎解きか何かあるのだろうか。
「この部屋はこの赤い扉中心にシンメトリーの形をしてるんです」
「置いてあるオブジェも掛けてある絵画も違うが、確かに構造はそうだな。…あれが“赤い服の女”の絵か」
 赤い大きなオブジェの横に立ち奥にかけられている絵画を指す。茶髪で赤い服を着た美しい女性が描かれている。
「今、あの絵の前に何もないの分かります?」
「目ぼしいものはないな」
「あの絵画が襲ってきた後、あの場所にさっきの扉を開ける赤い鍵が落ちてます。それを拾って、扉をくぐったらすぐ閉める。そうすれば大丈夫です、彼女らは扉を開けられない」
「……逃げる役と鍵を拾って逃走経路を確保する役が必要か。薔薇が好きと言うなら、俺が逃げる役に」
「降谷さん、ちょっと私に命託しません?」
 暗に「自分が逃げる役をする」と言う結城に目を細め見下ろす。余裕綽々と言った表情の勇気と視線が交わる。
「俺だと逃げきれないといいたいのか?」
「違いますよー。潜入捜査官の降谷さんはきっとこれまで何度も死線を潜り抜けてきたと思いますし、命狙われながら逃げのびたこともあると思います、想像ですけど。でもそれって、相手は“生きた人間”ですよね。“生きた人間”に追いかけられる恐怖と“非現実的なもの”に追いかけられる恐怖は天と地ほど違う。常識が通用しない、思考が読めない、まともに相手できる相手じゃない。降谷さんなら逃げ切れるでしょう、でも違うんですよ降谷さん。味わったことの無い恐怖はきっと一生付きまとう」
「それは結城にも言えることだ」
「残念ながら言えませんね」
「結城のそれは虚勢だろ」
「だったら試してみます?」
 結城はなんてことない様に右手を向けてきた。「ほら、手ぇ合わせてみ」といよいよ敬語を取っ払った結城にカチンときながら言われた通り左手を合わせた。
 結城の手は温かかった。離れるなと手を繋がれたときもそうだった。
「私よりよっぽど頭のいい降谷さんなら、分かりますよね」
 結城の体温が高いだけ?違う、明らかに俺の手が冷えてる。それだけじゃない、触れているだけの掌。柄にもなく手が震えていた。
 どうやら俺が思っている以上に現状に恐怖を感じているらしい。手の冷えも震えも恐怖や緊張からくるものだ。心理状況が身体に出るほどならよっぽどだ。自覚が無かったから質が悪い。そして俺すら気付かなったそれに気付いた結城は俺が思っている以上によく人を見ている。まだぺーぺーの新米警察官、交番研修すらしていないもはや肩書だけ状態の警察官の結城に見抜かれたのは正直屈辱だ。
「はぁ、分かった!くそっ、碌に研修受けてない新人のくせに」
「ひでぇ」
 ケタケタ笑いながら胸ポケットの薔薇を引き抜く結城。いたずらっ子のように笑った顔は交通局の警視正を思い出させた。
 予めどう動くかお互い確認し作戦に移る。扉の正面にある柱の陰に隠れながら結城の合図を待つ。
 ガシャン!ゴツン!と何かが割れ落ちる音、アガァと人ならざる呻き声が聞こえた。ローヒールが床を叩く結城が走る音と、ガーっと何かを引き摺る音、時折聞こえる呻き声。
「今です!」
 柱の向こうから結城の合図が聞こえたと同時に、赤い服の女が掛けられていた場所へ向かう。結城の言う通り、赤い鍵がポツンと落ちていた。すぐさま拾い扉の前へ向かう。鍵を開けるとパリンと鍵は砕け散り消えた。
「開けたぞ!」
「了解っす!」
 先に中へ入り内開きの扉をいつでも閉められるようスタンバイする。タンタンと全力疾走にしては軽い足音が徐々に近づき、結城が部屋に滑り込んで来た。同時に扉を閉め念の為鍵も閉める。ドンドンと扉を叩く音が響いたが、諦めたのか直ぐに無くなった。
「やっぱ私らに合わせてんすかねー。思ったより動きが早い」
 動き回って割に全く疲れを見せない結城が冷静に分析する。結城の運動神経がどのくらいのものか分からないが、俺が思ってるよりかなり高いのかもしれない。
 背の低い本棚が並ぶ小部屋。多くある本の中から結城は迷うことなく左手奥の本棚へ向かい、1冊の本を“押した”。ガチャっと鍵が開く音がした。
「うっかりさん見れないパターンね、まあ都合いいか」
「うっかりさん?」
「私の記憶じゃ“うっかりさんとガレッド・デ・ロワ”っつー絵本が刺さってるはずだったんです。ないならないでいいんですけどね」
 パッチ版か、と小さく呟きながら結城は扉を開けた。説明不足だけじゃないな、自己完結が多い。どう見たって分かりやすい人間の筈なのに、ベルモット以上に何を考えているのか分からない。
「…とりあえず、結城が強そうだってのは分かった」
「なんですかその感想」
 意味が分からないという表情を浮かべる結城の胸ポケットから薔薇を抜く。赤い薔薇は結城には何故か似合わなかった。


 扉の先には今までの花瓶と違う色の花瓶があった。それを見つけた降谷さんが「無限タイプ」と呟いた。やはり記憶力がいい。肯定すると花瓶に薔薇を挿した。5枚がマックスの赤い薔薇はそれ以上花びらを増やさない。増えると期待したのか、降谷さんはちょっと残念そうな表情をしていた。
 本来であれば右の廊下へ進むとギャリーが倒れている。左へ進むと、恐らくギャリーが迷い込んだいわば入り口が存在する。私がギャリー役だとして、イヴ役と同じ入り口から来た今あの時と状況が多少なりとも変わっている筈だ。
 左へ進んでみれば案の定右側の段差の上に花瓶があった。そして青い薔薇が活けてある。6枚の花弁の薔薇を抜きマジマジと眺める。
「この先は行かなくていいのか?」
 無限花瓶の元へ戻ろうとすると、その先を指しながら降谷さんが聞いてきた。恐らくあの先には青い服の女がいる。赤い扉はギャリーが入り口として来た部屋だから行く必要はない。
「向こうは行く必要ないので、先に進みましょう」
「そうか」
 花瓶へ戻り青い薔薇を挿すと4枚の花弁が復活した。どことなく身体が軽くなったような気がしなくもない。
「数が多い、その分狙われやすいんだろうな、例の絵画に」
「花びらの枚数は関係ないんじゃないですかね?」
 多分ただの危険度だと思うけど。そこは言わないでおこう。
 本来ギャリーがいる筈だった廊下を進む。赤いへらへらした絵画がまた唾を吐いてきたが、2度目のせいか降谷さんはノーリアクションだった。慣れてきたな降谷さん…。更に進むと青いベストを羽織った無個性さんが扉を塞いでいた。
「邪魔だな」
「これは触れてもダイジョブな奴です。よっと」
 無個性の腹と背を手で押さえながら横にずらす。ズズズと重い音を立てながらどかすことに成功。
「いい奴と悪い奴の区別がつかないな。服の色か?」
「色は関係ないですね。一番分かりやすいのは襲ってくるか来ないか」
「それより前に判断できたらいいんだけどな」
 ガチャっと赤い扉を開ける。ここに来てから随分時間が立ったような気がするけど確認する術がない。それでも“彼女”に会っていない今、ここはまだ序盤なのだろう。灰色の世界に心の中でため息を吐いた。