禁書ノ記憶

美術館からの脱出

灰の間

 悲しい表情を浮かべている花嫁と花婿の絵画。その前には左手と右手のオブジェがワキワキと動いている。それらを一旦スルーしてさらに奥に進んだ。
 隠し部屋へ行くためには迷路でボタンを押さないといけない。その隠し部屋には結婚指輪がある。結婚指輪のありかを示すヒントを探すためには目薬を持って、充血したお目目に潤いを与えればいい。結婚指輪の場所は分かってるから目薬を取る必要はないな。さて隠し部屋へ行くための迷路、ここが厄介だ。
「この部屋、中が迷路っぽくなってるんですが3体の無個性さんがうろついてます。襲われないようにしながら隠しスイッチを押さないといけません」
「見つからないようにしながらスイッチを探さないといけない、ということか」
「スイッチの場所事体は覚えてます。あとはいかにバレずに押せるかですね。挟み撃ちになったら死亡と思ってください」
「わきを通ることはできないのか?」
 ガチャっと扉を開けると狭い通路が左右に伸びる。それを見た降谷さんは「無理そうだな」と打開策を降ろした。
 極力足音を立てないよう歩いてみると、無個性さんが歩くカツンカツンとピンヒールが床を打つ音が聞こえる。音を頼りに近くに来たかどうかの判別が出来そうだ。左の壁伝いに細い通路を進んでいく。
“迷路は 好きですか?”
 白いインクで書かれた問いかけに心の中で「命懸けはごめんだね」と返事をする。私たちに気付いているのか偶然か、恐らく前者だと思うがカツンカツンと歩く音がだんだん近づいてくる。スイッチがある壁の前に無個性さんがいないのを確認すると壁をチェックして素早くボタンを押す。そとからゴゴゴと大きなものが動く音が聞こえた。
 振り返ると降谷さんが来た方向を指さし首を横に振った。そっちからきてるのか。頷いてスイッチの反対方向に進み直ぐ右に入る。そのまま扉の方向へ向かうと、途中無個性さんの姿が見えたが襲われることなく無事に部屋を出ることができた。
「挟み撃ち無くて良かった…」
「そうだな。それに言うほど入り組んだ迷路じゃないようで良かった」
「?よく分かりましたね」
「音の響き方さ」
 音の響き方で迷路の入り組み具合って分かるんですか。私には無理です。潜入捜査官はそういうのも求められるのか…。
 隠し部屋に入ると直ぐワイングラスを模したソファの様なオブジェと、ムンクの叫びを思い出すような表情をした石像が現れる。右に続く部屋の電気は一定の間隔で明滅している。オブジェは総スルーして左に進むと一番奥に人の姿にも見える木のオブジェがあった。葉っぱに触れると肌触りは完璧に本物のそれだ。ぐるりと回りと一周し、葉っぱの中に何かが光ってるのが見える。
「……くっ」
「言えば取るから…」
 女子の中では割と背の高い方の筈なのに…背伸びして取れないって何事…。あくまで感覚だけど降谷さんは恐らく180cmは超えてるだろう。葉っぱの中で光る指輪を取ってくれた。
「結婚指輪か。悲しい顔した新郎新婦に届ければいいのか?いや、その前の手にハメればいいのか」
「ハメる指間違えると花弁1枚減るので気を付けてください」
「結婚指輪、だから左手の薬指」
「降谷さんはそういう相手いるんですか?ぼちぼち適齢期ってやつですよね」
「…潜入捜査中に恋だの愛だの言ってる場合じゃないだろ…相手にも危険が及ぶんだぞ?」
 花嫁花婿もとに向かいながら他愛のない雑談をする。自分が好きだからとか相手を守る覚悟でというのもなくバッサリ切り捨てられる。
「その言い方だと“いるんだけど仕事の為に捨てた”って聞こえますよ」
「正確には“いた”だな。警察学校にいるあいだに浮気されてそのまま別れた」
「あー…」
 警察学校と言う特殊な環境であると携帯電話が取り上げられて簡単には連絡できない。特に最初の1ヶ月は外泊すらできない。同期にもいたな…自然消滅したって人とか久々に会ったら知らない男とベッドインしてる現場に出くわしたとか…。
「結婚考えてたんですか?その人と」
「今思うと若気の至りだったような気もする。当時はそういうイメージ抱いていたけどね。今は全く想像できない。結城はどうなんだ?」
「学生時代はいたんですけど…理不尽なフラれ方しましたね」
「ホォー?」
 ニヤニヤと玩具を見つけたみたいに「どんな?」と聞いてくる降谷さん。絶対楽しんでるだろ。
「何だっけな、“お前が男で俺が女だったら良かったのに”ってフラれました。マジで意味が分からない、性別なんて関係ねーだろうがってキレましたね」
 割と本気の相手だったから余計にムカついた。結婚、までイメージしてはなかったけど青春時代特有の「このままずっと」くらいは思ってた。…若気の至りってやつか…。
「性別なんて関係ない、ね。結城なら相手が同性でも構わないんだろうな、好きになった相手なら」
「実際に同姓を好きになったことないので分からないですが、まあ同性恋愛は肯定派ですね。今の仕事についてからは勝手に彼氏仕立て上げました」
「…イマジナリー彼氏」
「痛い、痛すぎる、違いますそんな目で見ないでください」
 憐れむような目で私を見てきた降谷さん。黒い左手の薬指に結婚指輪をはめた。すると手は動くのをやめ、ポトッと何かが落ちる音がした。笑顔になった花嫁の絵画の前にはブーケが落ちている。花婿も微笑みを浮かべて嬉しそうだ。
「ただの警察官と違って特殊な立ち位置にいるのは自覚してます。だからこそ、解読中は“帰らないといけない”と使命感を持たないといけない。でも思ってるだけって難しいんですよねこれが」
「その帰ってくる理由が、仕立て上げた彼氏ってことか」
「そうです。実在はしています。でも特定の人間を好きになってしまったらきっともう本の世界には行けなくなってしまう」
「もし帰って来れなくなったら、を想像して?」
「そうです。必ず帰って来れる保証なんてどこにもない。そしたら、“帰らないといけない”理由にもなるし“特定の人間”でもない理想の彼氏がいたんですよ」
 ブーケを拾い花びらに触れてみる。割としっかりとしたブーケだ。造花ではなく本物の花。
「そもそも人間じゃなさそうだな」
「そうです。私が仕立て上げた彼氏の名前は、“日本”ですよ」
 一番危惧しないといけないのは本の中で死亡して帰れない事じゃない。本の中の住人に恋してしまった時、もしくは“本から出たくない”と考えてしまった時だ。両親がいるから現実世界に帰るというのは実は理由としては弱い。日本の為に、と言うより「死ぬならあの日本で」という思考で解読に臨んでいる。普通に考えると両親を理由にするよりも大局的すぎて理由にならなそうだが、これがまた案外しっくり来ているのだ。
「警察官のくせに“この国の為に命捨てます”とは言えないけど、“死ぬならこの国で”と思うくらいには日本が好きなんですよねぇ」
 春には団子を食べながら桜を見て、夏には誰が一番長く線香花火できるか競い、秋には銀杏(ぎんなん)の匂いを笑いながら銀杏(いちょう)を見上げ、冬には雪で燥ぐ子どもたちを眺める。四季折々のイベントが昔から好きだ。
「何より白米が美味い」
「全面的に同意するけど今ので台無しになあったな」
 あーあ、と残念そうに言う降谷さんだったが、これまで見た中で一番優しい表情をしていた。


 泣いてるのか嗤ってるのか分からない青いそいつにブーケを食わせると、唇の時とは違い普通の扉の形で通してくれた。
「んで久々にキーマカレー作ろうと思ったんですけど、作り置きしようとルー全部使おうとしたんすよ。材料は丁度良かったんですけど鍋が1人暮らし用のせいで、まー小さくて小さくて、みじん切りにした玉ねぎで埋まっちゃったんですよね」
「何人分作ろうとしたんだ?」
「確かルーのパッケージには9皿分ってありましたね」
「9皿分でその鍋じゃ小さすぎるだろ、馬鹿だな」
「いけると思ったんですって、ボウルに玉ねぎ入れた段階でおや?って思ったけど!」
「普段料理しないって言ってるようなもんだぞ」
「昨今のコンビニ弁当の進化は凄まじい」
 頭がずらりと並んだ細い通路を最近やらかしたヘマ話で通り過ぎる。自炊しないことがバレたが特に気にしない。仕事柄両親は料理が下手なのか手を抜いているだけなのかは未だに分からない。一番の笑い話は火を入れていることを忘れたまま放置した結果沸騰しすぎて気化した味噌汁だ。大根とお揚げがちょこんと鍋に残ってて、「これなにー?」と聞いたら「みそしrあああああ!!」と母が声をあげたのはよく覚えている。その話もすると「結城警視正…プライベートとのギャップが凄いな」と驚いていた。仕事中の母がどんな人間なのか分からないけど、降谷さんの様子を見る限り「失敗は戦犯」ってタイプなのかもしれない。めっちゃキツイ上司じゃん。ぜってー部下になりたくないわ。
 続いてやってきた部屋は前半部分で最も鬼門だろう。降谷さんのSAN値チェックが入る可能性大だ。
「この部屋、ギミックを解けば解くほど敵キャラが増えるので覚悟しといてください」
「分かった。部屋の形は把握しておいた方がいいだろうな」
「壁に掛かってる女とか無個性さんたちは後々ほぼ全部追いかけてくるので、どこに何があるか分かってると襲ってくる敵の位置も把握しやすいかもです」
 入って右側を通って窓付きの部屋の扉を確認するが鍵がかかって入れない。奥に2部屋あったのでそちらに向かうと、左の部屋は4桁の数値入力が、右の部屋は「この部屋にある 女の絵の数を答えよ」の文字と共に2桁の数値入力を求められた。
「女の絵…数えている最中に襲われそうだ」
「ちょっとまってくださいねー…えーっと…」
 この部屋の中には花瓶があった筈。今のところ回復の必要はないし、中の本も下手に読まない方がいい。とするとこっちの部屋は入らなくていいな。
「右の部屋は入らなくても問題ない、かな…」
「じゃあ左の部屋の4桁の数字探しか」
「それの場所は分かってるんで、襲われないよう向かいますか」
「場所は分かってるのに数字は分からないのか?」
「いやー何分記憶力が…はは…」
 攻略方法は覚えてるけど数字まで覚えてない。だから最初の方で木のリンゴを取りに行った時も態々「ウソつきたちの部屋」に行った。
 黄色、緑、青の女の絵画を通り過ぎると1枚だけ他とは違う絵が掛けられている。
「美術館にあったのと同じ絵だな。数字はなかったはずだけど」
 ほんとよく覚えてるな…。関心を通り越してシャッターアイでもあるのかと疑うこの頃。
「5629?…いや吊るされて逆さになってることを考慮すると6295?」
「後者が正解っすね」
 来た道を戻り4桁の数字を入力する。描いている途中の花瓶の絵を見た降谷さんは、私が何か言う前に花瓶の乗った机を移動させた。
「こういうことだろ?」
 ガッチャンとどこかで音がする。ドヤ顔の降谷さんにサムズアップで答えたらスッと真顔になって頭を小突かれた。「何かムカついた」って、理不尽が過ぎる。
 部屋を出て椅子の横にあった頭を一瞥すると「増えてるな」と降谷さんも反応する。視界の端に赤い服の女がうろうろしているのが見える。
「降谷さんの視界に入れないようにしたかったんだけどなー…」
「これだけ絵があれば仕方ない。というかこうなるならあの時どっちが逃げ役でも良かったんじゃないか?」
「それはまぁそうですけど…」
 失念していたのは私のミスだ。先に知っておいた方がまだ耐性あったかも。しかし同じものを見てるはずの降谷さんが怯えた様子はないので、とりあえずSAN値チェックは成功しているらしい。
 女の目を掻い潜り一番奥の部屋に入る。等身大の鏡が1つ奥にかけられているだけの部屋。何もないのがかえって薄気味悪さを演出している。
「ああそうだ、降谷さん」
「…なんだ、改めて」
「ここにある美術品、必要が無ければ絶対に壊さないでくださいね?」
「触れていいかも分からない状態なのに態々壊そうとは思わないよ」
「いや降谷さん私と一緒で最後は物理でものを言うタイプかなぁって思って」
「…結城はどうなのかしらないが否定はできないな…」
 「太刀打ちできそう」とか「殴ればなんとかなりそう」とかちょいちょい零していたところを見るに、ただの頭脳派と言うより「問題なければ脳筋」な頭脳派だと思われる。分かるよその気持ち。私だってここの敵キャラが物理でどうにかできるなら、襲い掛かってくる片っ端からはっ倒してた。
 鏡の前に立つと降谷さんと自分の身長差がよく分かる。足長いな降谷さん。
「…目測10cm差」
「女子の中じゃ高い方じゃないか?」
「確かに、高校時代は自分より高い人あんまいなかったですね…バレー部のことかめっちゃデカい子いましたけど」
「バレー部とバスケ部は身長高い人多いよな」
 会話しながら振り返ると、入り口に先程までなかった頭のマネキンがある。降谷さんと2人鏡をもう一度見てみるが、扉は映っているのに頭のマネキンは映っていない。マネキンに近づいてみると、電気の光に合わせてマネキンの影が出来ているのが分かる。
「こういうのは大抵影もないって思うんだが…考えたら負けか」
「まあこういう場合は考えたら負けですね」
 するっと触ってみるとひんやりとした温度が手に伝わる。マネキンにしては重みのある感触だ。石膏で出来てるんだろうか。
「もう一度鏡を見るとジャパニーズホラーみたいなことが起きます」
「顔の横にこいつが浮かんでると。聞いたことあるようなホラーだな」
 あーはいはいと少し投げやりな降谷さん。ちょっと疲れてきてるかもしれない。ここを抜けたら一度休憩したほうがいいだろうか。ずっと歩きっぱなしだったしその方がいいかもしれない。さっさと脱出するためにサクサク進んでいたけど、休めるなら休んでおいた方がいい。
 鏡をもう一度見ると私の背後にあのマネキンが浮かんでいた。やはり私がギャリー役か、と改めて納得しながら振り返ると、足元にあのマネキンが落ちている。
「清々しい程ノーリアクションだな…そういうところは潜入捜査官向いていると思うぞ」
「本によってはある意味潜入捜査みたいになるかもしれないですね」
 少女みたいに他にも人間が生きてる世界ならそうなることは十分あり得る。あん時は上手いこと立ち回ってバイトやって食い凌いだっけ。幸い偽装した身分証明は持っていたから日雇いのバイトを転々としていた。
「さて、この後の動きですが…あの時と同じように女のいた場所に鍵が落ちてます」
「今度は何色だ?」
「緑です。吊るされた男の絵画の下の通路にかけられてます。んで、あの窓のあった部屋を開けられます。あそこはいらないと次の場所行けないんですよねー」
「女の数を入力する部屋はまた無視でいいのか?」
「無視でいいです。それと、ちょっと心も身体も忙しくなるので覚悟しといてください」
「了解」
 ガチャリと扉を開けると、明らかに額縁を引き摺る音が増えている。アガァと何かを欲するかのような声も時折耳に入る。
「目に入らなければそんなに早く追ってこないはず」
「なるべく視界に入らないよう、か」
 額縁を引き摺る音を頼りに吊るされた男の下の通路の方へ足を向ける。まだそこから大して動いていなかったらしい緑の服の女が元居た場所をズズと這いずっている。
「鍵取ったら隣にかけられてる赤い服の女が追ってきます」
「緑を引き付けて逃げるか、鍵を取って逃げるかの2択か」
「ひきつける方が動き回る分危険ですね」
「じゃあそっち俺がやる」
 手を握られ「いいな?」と念を押される。伝わる体温は私と大差がなくもう震えている様子はなかった。復帰が思ったより早い。そこまで言われたらOKを出すしかないよ。
「5回食らったら死ぬってこと忘れないでくださいね」
「そっちは10回な」
 別の通路の陰に隠れ、その間に降谷さんが緑の服の女の注意を引き走っていく。すぐさま女のいた所に行けば緑の鍵が落ちている。それを手にすれば想定通り、隣に掛けられていた赤い服の女が落ちてきた。フェイントをかけながら女の視界から外れ、窓付きの部屋の扉を開けた。
「OKです!」
 遠くで走る音に向かって叫べば、私よりも速いスピードで降谷さんが走って来た。めっちゃはええ。滑り込みで入って来た瞬間扉を閉める。
「!?」
「割と余裕でしたね。…降谷さん?」
 驚き固まる降谷さんの視線を追うと、イヴの両親の絵画…ではなく見知らぬ男女の絵画が飾られていた。左側には茶髪で眼鏡をかけた女性、右側には黒い短髪で髭を生やした、女性より太い縁の眼鏡をかけた男性。微笑を浮かべる男女の左手には同じ見た目の指輪がはめられている。ということは夫婦か。イヴの両親の絵が飾られている筈だった、ということを考えると降谷さんのご両親と考えるのが妥当だが、あまりにも似なさ過ぎている。訳あり…?
「なんで……」
 美術館にあったのと同じ白いソファが部屋の中央を陣取っている。降谷さんは歩を進め絵画の前で呆然としていた。下手につつかない方がいいだろうか。とりあえず、フラグ回収しておこう。一番下段しか本の入っていない本棚を窓側にズラし、トゥルーエンドの道を一歩進める。
「……大丈夫ですか?」
「……あ、あぁ…大丈夫だ」
 言葉のわりに動揺が隠せていない降谷さんに内心舌打ちする。余程関係の深い人物のようだ。ここに来る前にレイと名指しされたときはそこまでじゃなかったのに、こんなに動揺しているということは…、どういうことだ?
(やべぇ頭の悪さここで出てきた)
 何故この人たちの絵が、というところだろうか。この後の動きの確認をしたかったが難しそうだ。降谷さん、と声をかけようとするとドーンドーン!と部屋を揺らすほどの大きな音が響いた。
「なんだ!?」
 思ったより早いと舌打ちをする。警戒心が戻った降谷さんがまた呆然としないよう右手を掴んだ。
「数字入力のない、開かない部屋覚えてますか!?」
「あ、ああ、通路の途中に会った部屋だよな」
「ここから出たら兎に角そこを」
 目指してください、と言うのと同時にドォォンと大きな音を立て壁に穴が開いた。穴のサイズは私でもかがまないと通れない。そう簡単には行かないか。入って来た黄色い服の女がこちらに這いずってくる。
 ぐいっと降谷さんの手を引きながら女の横を無理やり通り過ぎる。アガァとお馴染みの声をあげながら振り上げた女の手が私の足に絡みつく。足が引きちぎられるような痛みを耐え女を蹴り飛ばし、降谷さんから手を離して穴から外に出させた。
 追って外に出ると掛けられていた女や動かなかった無個性さんが動き回っているのが見える。一瞬立ち止まってしまった降谷さんに「早く!」と急かしてあの通路の部屋へ走る。途中遭遇した女や無個性さんを振り切って、なだれ込む様に扉をくぐりすぐさま閉めた。
「降谷さん、怪我無いですか」
「俺は大丈夫だ、それより結城、花弁が」
「2枚くらい大丈夫ですよ、この先また花瓶ありますし」
 長い廊下には段々口角をあげながら赤い涙を流す頭の絵が並んでいる。ここでは休むに休まらない。ぐっと耐えるような顔をしている降谷さんに「大丈夫だから、行こう」と念を押す。僅かに痛みが残るが動けない程じゃない。もう少ししたら小部屋があった筈。そこで一休みして先に進もう。ゲーム通りの進み方だな。違うのはイヴとギャリーが逆ってところか。
「少し進んだら小部屋があったと記憶してます、そこで一旦」
 ドサッ
 何かつくような音が聞こえバッと振り返る。降谷さんが膝をつきながら頭を押さえていた。
「降谷さん!?」
「すまない、ちょっと眩暈が、しただけ…」
「降谷さん!!」
 倒れそうになるのを抱きかかえ防ぐ。声をかけながら軽く揺すっても起きる気配がない。気を失っているようだ。
(SAN値チェック、失敗…か…?)
 やはり先ほどの男女の絵が関係しているんだろうか。聞いておくべきだった?聞いてどうにかなる問題だったのか?あー、考えていても仕方ない。倒れた降谷さんをおんぶで背負い、突き当りの左側にあった小部屋に何とか入った。


 本棚の本は当然ながら美術に関係するものばかりだ。今まで触れてこなかったジャンルなだけあって新しい発見ばかりだ。三日後に忘れる自信があるけど。
 視界の端で横たわる降谷さんが身じろぎしたのが分かった。起きたのかもしれないと近寄ると、思いのほかしっかり目が開いていた。
「あ、気が付きました?」
「…戻ってない、か…」
「はは…残念ながらまだ本の中です。そういえば、いつの間にか右ポケットに飴入ってたんですよ」
 私が掛けたジャケットの右ポケットを指さす。降谷さんは右手を突っ込み黄色い飴の入った個包装を取り出した。
「気休めでも楽になるかも、あげますそれ」
「いつの間にか入ってたんだろ…得体の知れないものを食べさせるんじゃない」
「じゃあお守りってことで持っといてくださいよ」
 まだ少し幾分か顔色が良くない。意識のある状態でもう少し休んだ方がいいだろう。
「精神が不安定の状態のまま先に進むのはあまり好ましくないです。降谷さんが落ち着いたら、先に進みましょう。無理は禁物ですよ」
「…分かった、すまない。…あれ、薔薇は?」
「ああ、花瓶に挿してあります。ほらあれ」
 本棚の間にある灰色の花瓶。花びらが5枚付いた赤い薔薇と、10枚付いた青い薔薇が挿してある。
「両方全快状態です」
「そうか、良かった」
 壁に凭れかかれふぅと息を吐く降谷さんは一先ず大丈夫そうだ。行けるようになったら自分から声をかけてくれるだろう。本棚に戻り、先程まで読んでいた美術家に纏わる逸話とやらが書かれた本を手に取った。
 数ページめくったところで隣に人の気配がした。降谷さんが隣に座って来たんだ。
「ジャケット、ありがとう。そしてすまない、ちょっと皺になった」
 渡されたジャケットはちょっとどころかしっかりとした折れ目が出来ていた。思わず降谷さんを見るとバツが悪そうに「すまん、クリーニング代は出す」と再度謝ってくる。クリーニング代出してくれるならいいや。
「あの絵の2人、昔世話になった人なんだ」
「私聞いていいやつです?それ」
「何であの人たちの絵が描かれてたのか分からないんだ。結城なら分かるんじゃないかって。それに話すことで気が楽になることもあるだろ?」
「降谷さんがそれでいいなら、聞きますよ」
 降谷さんはぽつぽつとあの2人のことを離してくれた。子どもの頃お世話になった人たちで両親ではないそうだ。髪の色とかハーフの子だとかで虐められてた時、怪我を手当てしてくれたとか。もう亡くなられているそうだ。女性の方、宮野エレーナさんは降谷さんと同じくハーフで降谷さんの気持ちをよく理解してくれたと。良い意味で特別扱いされたのがとても嬉しかったそうだ。
「降谷さんの子ども時代で最も思い入れのある2人、ってことですね」
「そうだな。当時は本当に心が救われた」
「今の学生だと染めてるのか地毛なのか分からない子多いですから、降谷さんが今学生だったらまた違ってたんでしょうねー。ほら、何でしたっけ、モデルの…キセリョ?あの子は地毛らしいですよ」
「…あの色で地毛なのか。確かに、時代が違えばいじめもきっと無かったんだろうな。でも虐められてたからあの人たちに会えたって思うと、そこまで悪いものじゃなかったかもな」
「結果論ですね」
「バッサリ切るな」
 イヴは両親の絵画を見て一気に精神的に不安定になった。両親はどこに、大丈夫だろうか、と言う意味だろうけど。降谷さんの精神を揺るがす人物がその2人だった、だからあそこに描かれていた、というところか…。
「この世界は、というよりこの美術館は降谷さんを返したくないんですよ。自分から残ろうとしないなら、帰る気を亡くせばいいって判断したんでしょうね。精神状態が不安定なら判断力が低下する。脱出が出来なくなる可能性だって0じゃない、どころか寧ろ高い」
「既に肉体的に閉じ込められてるが、そういう意味じゃなくて精神的に出られ無くしてやろうってことか。はは、してやられたよ」
「恐らく今後も降谷さんの精神を揺るがすような何かが出てくるかもしれないですね」
 もしかしたら“彼女”も侮らない方がいいかもしれない。彼女以外の誰かが彼女役として現れる可能性もある。もし上司や風見さんが一緒に巻き込まれていたとして、彼女役になっていたら非常に厄介だ。彼女が外に出るには、必然的にギャリー役である私がここに留まらないといけなくなる。
(…ゲームはゲーム、ここは本の中とは言え私の身に起きている現実、と考えて行動すれば何とかなるか…?)
 どういう状態であれここから脱出してしまえばこっちのものだ。上司や風見さんが彼女役ならスケッチブックの世界の状況が変わる可能性が高い。そもそも彼女の存在が否定されるわけだから、彼女の絵事体存在しなくなる。上司も風見さんも実在する人間、彼女役に抜擢されたとしても死亡することはないかもしれない。かもしればいばかりで嫌だな。
「まあ降谷さんがここに留まろうとか言う思考しだしたらぶん殴ってでも連れてきますから」
「殴られないようにしないとな」
 降谷さん残して脱出しようものなら上司や風見さんから殺されかねん。そうでなくても「置いていった」という事実は心のしこりになるだろう。トラウマになったら仕事に支障が出る。
 持ち直した降谷さんと共に部屋を出た。右ポケットにレモン味と思われる飴は入っていなかった。