楽観主義

 嫌な考えはしないようにしていた。でも、もし、なんてことが消えなくて。仕事は何とか乗り切っていると言う状況だ。元々寝つきは悪い方だけど、恐ろしいほど寝起きが良くなった。こうして寝てる間にも、なんて嫌な考えが浮かんでは打ち消して。
(…大丈夫、大丈夫なんだ、…何が、どこにそんな確証がある?…いや、私が信じないでどうする…何を信じるの?…生きてるってことだよ…)
「お疲れ様、夕」
 とぼとぼ歩いて帰って居ると声を掛けられた。白い車に寄り掛かるように立っていたのは、仮初の恋人だった。
「安室さんじゃないですかー!いやーこんなところで会うなんて!」
「丁度通りかかったんだけど、そろそろ仕事が終わる時間かと思ってね。送るよ」
「ありがとうございますー!」
 安室さんはやはりイケメンで、目の保養で、なんて思いはするけど頭をしめるのは姉のことばかりで。特に相手が別のイケメンならまだしも、安室さんとなると事情を知ってるから。
 ここは外だからと気力でテンションを上げる。車中も耳は無いって分かってるけど、いつものキャラを何とか保つ。
 原作が、とか、物語的に、とか、自分の存在はイレギュラーだ、とか、そういうのはもう考えないことにした。というか既に原作から外れている筈。部屋に付くや否や私が何か言う前に安室さんは盗聴器がないか一通り部屋を見渡した。すげえよな、分かるなんて。
「大丈夫、なにもない」
 その言葉を聞いた瞬間表情が一瞬で抜け落ちた気がする。カバンをソファに投げ寝室に向かい、用意していたファイルを持ってきて降谷さんに渡した。
「…これは…?」
「沖矢昴改め赤井秀一の情報、と江戸川コナン…いや、工藤新一の情報。他、組織の情報」
 ソファに座り降谷さんはファイルの中身を吟味した。暫く集中したいだろう、私は降谷さんを放置してシャワーを浴びた。
 頭にタオルをかけたまま脱衣所から出た。
「…この情報、どこで」
 組織の情報、あの方のこと。警察が組織を壊滅する為に必要な物なんて分からない。でもそれだけあれば割と十分なんじゃないかとか思う。分からんけど。
「そこから姉の情報は一切出てきませんでした。組織は姉の存在を認知してない、ってところで一先ず安心してます」
「組織のデータベースをハッキングしたのか!!あそこがどれだけ危険か分かっているのか!」
 潜入中の降谷さんの近くにいるのにハッキングは確かにまずかったかもしれない。冷静じゃなかった。
「ちょっと冷静じゃなかったです。すみません。でも、それやったの、姉が消息不明って連絡した直ぐ後ですよ」
「…2週間前……。確かに組織からハッキングされたなんて話は聞いてない」
「私は降谷さんを、安室さんを、バーボンを利用しています」
 降谷さんは目を見開いた。ポーカーフェイスってそんな簡単に崩れていいんかい。
「公安の降谷さんに情報を渡すことでFBIとの接触も免れない、最も情報を握っているだろうキーパーソン江戸川コナンに信頼されている安室さんからコナン少年の情報を引き出す、そして組織内の会話のやり取りをバーボンから聞き出す。結局全部姉を探し出すためにやっているに過ぎない、至って個人的な、私情まみれの理由で利用している」
 自分で言いながら思わず笑ってしまう。これだけのことをして姉の情報が手に入らない。姉がどこにいるか、今どういう状態なのか分からない。
「組織が危険?そんなのどうでもいい、大事なのは、…姉ちゃんが…」
 泣くな、まだ決まったわけじゃない、信じろ、大丈夫だ、涙がこぼれないよう静かに目を閉じる。目が熱い、今開けたらぼたぼた零れ落ちるに決まってる。
「……またなんも知らねーとこで…終わんのかよ……」
 知らないところで辛い目にあっていないといい、悲しい思いをしていないでほしい、生きていて、ほしい。
 降谷さんが近づいてくる気配がした。目を開けて、やろうとしていることに気付き思わずその身体を手で押した。
「そういうのいらないです、マジで」
「…そんな状態を放置なんて、誰もできないだろ」
「希望的慰めなんていらない。…私はお前が思ってるほどすげー人間じゃねえし、低俗でチョロイから、本気になる。…ふはっ、こんな状況で、ほんと何言ってんだか…」
 今降谷さんとまともに会話できる気がしない。頭にかぶっていたタオルをぎゅっとつかみ顔を見せないようにする。何も言わない降谷さんを放置して寝室に逃げた。
(髪、ちゃんと乾かしてないや…)
 ベッドにうつ伏せになる。もう、今はなんでも、どうでもいいや。勝手に零れた涙をぬぐいもせずそのまま目を閉じた。


 東條瑠依の消息は彼女の言う通り一切掴めなかった。メールや電話で恋人らしい会話をし、態とコナン君がいる前やポアロで「恋人ができた」と装い興味を自分に向けた。東條さんを監視するFBIがいるのかと調べてみれば、彼女の言う通り確かにいた。あの日、東條さんが電話してきたのは情緒不安定の中の幸いかもしれない。自分だったら?大事な人が、大切な人が消息不明と分かれば…。嫌な考えはよそう。
 これだけ周囲に存在を散らせながら会っていないとなると、流石に不審がられる。百聞は一見に如かず、会社帰りの恋人を迎えに行った。会社から出てきた東條さんの表情に不審な点は見られない。…思っている以上に冷静なんだろうか。
「お疲れ様、夕」
 恋人らしく親しみを込めて名前を呼べば、東條さんの表情はみるみる明るくなった。
「安室さんじゃないですかー!いやーこんなところで会うなんて!」
「丁度通りかかったんだけど、そろそろ仕事が終わる時間かと思ってね。送るよ」
「ありがとうございますー!」
 冷静?…訂正、全然冷静じゃない。いや、冷静といえば冷静だが、いつもの東條さんじゃない。いつもはもっと、こちらの理解できない、できれば理解したくない類の変人変態発言を繰り出す。あくまで普通な会話。
…普通な会話に違和感を覚えるというのは、間違いなく彼女だけだろな…。
 車中の会話も他愛のないもので、本当に、まるで依頼人の女性を相手にしているような気分だった。もっと大人しくなれば…と思っていたが、実際にこう大人しいとかえって不安になる。
 部屋に上がり盗聴器の類がないかざっと見渡す。流石に部屋の中に不法侵入はしないか。
「大丈夫、なにもない」
 それを聞くや否や、一体誰だと思えるくらい表情を一瞬で落とした。表情が落ちる、とはこういうことなのか。東條さんはカバンをソファに投げ出し、寝室へ向かうと直ぐにファイルをもって出てきた。
「…これは…?」
「沖矢昴改め赤井秀一の情報、と江戸川コナン…いや、工藤新一の情報。他、組織の情報」
 さらりと言い放った、その言葉、そして渡されたファイルの重みが一気に変わる。これまでも彼女は情報を提供してくれた。でもこれはきっと、今までの比じゃない。
 ソファに座りファイルの中を見た。彼女は気にも留めず浴室へ入っていった。
(来葉峠よりも信憑性のある赤井秀一が生きているという情報に証拠…江戸川コナンと工藤新一が同一人物である証拠…国内における組織の拠点、幹部の情報、…ジンの情報も…)
 がらっと彼女はシャワーから出てきたのが分かった。
「…この情報、どこで」
「そこから姉の情報は一切出てきませんでした。組織は姉の存在を認知していない、ってところで一先ず安心してます」
 どうでもいいかのように、またもさらりと彼女は言った。安心していると言う割に表情は、不安を必死に隠している。彼女は姉のことで頭がいっぱいで、自分のしたことを大きさを分かっていない…!
「組織のデータベースをハッキングしたのか!!あそこがどれだけ危険か分かってるのか!」
 厳しい目で彼女を見る。今までのハッキングとはわけが違う。
「ちょっと冷静じゃなかったです。すみません」
 この謝罪はきっと自分のしたことに対してじゃない。どこか自分自身をおざなりにする彼女に寒気がした。
「でも、それやったの、姉が消息不明って連絡した直ぐ後ですよ」
「…2週間前…」
 組織への探りは入れていた。情報を持っていそうなコナン君も探っていた。その2週間、いや、2週間前に彼女はこれだけの情報を手に入れたのか。
「確かに組織からハッキングされたなんて話は聞いていない」
 これだけの情報が全てデータベースにあったわけがない。それでも組織で作っている薬や、被験者の情報、実験結果は間違いなく組織のデータベースを探らないと出てこない。ハッキングがあることが分かれば、今はもう組織から信頼を回復しているバーボンにも情報が来るはずだ。
 冷や汗が出る。それはこちらが喉から手が出るほど欲しかった情報が今手の中に全てある。妙な興奮、そしてそれをやってのけた目の前の彼女。いたって平々凡々、ハッカーとしての能力は長けていると思っていたが…ここまで長けているなんて、全く想像していなかった。
「私は降谷さんを、安室さんを、バーボンを利用しています」
 …どういうことだ…。利用しているのは間違いなくこちらの方。協力者としての関係こそあれど、自分と違い彼女には明確なバックがない。公安がたった一言、「知らない」と言えば彼女のしてきたことは全て犯罪になり得る。
「公安の降谷さんに情報を渡すことでFBIとの接触も免れない、最も情報を握っているだろうキーパーソン江戸川コナンに信頼されている安室さんからコナン少年の情報を引き出す、そして組織内の会話のやり取りをバーボンから聞き出す。結局全部姉を探し出すためにやっているに過ぎない、至って個人的な、私情まみれの理由で利用してる」
 自嘲気味に彼女は笑った。今まで見せたことのない表情。いつか組織の任務で見た、生を諦め死を覚悟した人間の笑い方と一緒。
(…不味い…変なことを、考えていそうだ)
「組織が危険?そんなのどうでもいい、大事なのは、…姉ちゃんが…」
 これでもかと手を握りしめている。頭にタオルを被った状態で俯いているから表情は見えないのに、容易に想像がつく。
 恋人という関係で無理にでも会えるようにしたのは正解だった。こんな情緒不安定な彼女を1人にはできない。相変わらず俯く彼女にゆっくり近づいた。
「……またなんも知らねーとこで…終わんのかよ……」
 あ、ダメだ
 そのつもりといえばそのつもりだったが、ある種衝動に近い。彼女を抱きしめようと距離を詰めた、のにそれは叶わなかった。
 自分の胸を押すその手は、今まで触られた女性の誰よりも弱く、そして震えていた。
「そういうのいらないです、マジで」
 いつもなら、なんて今日彼女に会ってから何度思っただろう。その拒絶が何故か心臓に響いた。
「…そんな状態を放置なんて、誰もできないだろ」
「希望的慰めなんていらない」
 慰めるつもりなんて…全くなかった?本当に?彼女を抱きしめて、何て言おうとした?
「私はお前が思ってるほどすげー人間じゃないし、低俗でチョロイから、本気になる」
 ……強かというべきか、こんなときでも恋愛脳かと笑うべきか。今まで出会った女性で、こんなことをいう人はいなかった。今その場の感情に身を任せ縋り付き、涙を流す。彼女は縋っても、そもそもまだ、泣いてもいない。声は潤んでもう泣いているだろって誰だって分かるのに、目から肝心の涙は一滴も出ていなかった。
 彼女は胸を押していた手をだらりと下げた。
「…ふはっ、こんな状況で、ほんと何言ってんだか…」
 言うだけ言って彼女は逃げるように寝室へ入った。
(……しっかりしろ降谷零、1人の人間に揺さぶられるな…)
 守るべきも恋人もこの国だ。たった1人、守るべき国民であることは間違いない、でも、優先すべきは一個人じゃない。
(…髪、乾かしていなかったな…)
 寝室に耳を当てるも向こうから身じろぎする音は聞こえない。微かに寝息が聞こえる。音を立てないよう中に入れば、タオルを頭に被ったままベッドに倒れこんでいた。
「…風邪、ひくぞ…」
 守ってやる、お姉さんは必ず見つけ出す、それが言えない。布団をかけてやる。タオルを取るため、と言い訳をして頭を撫でようとした。
―希望的慰めなんていらない―
 手が止まる。彼女が欲しいのは慰めじゃない、確実な証拠。
 うじうじしているなんてらしくない。彼女は身を粉にしてあの情報を集めたんだ。なら、やるべきことは彼女の側にいることじゃない。
 デスクに置いてあった付箋に一言残し、彼女の部屋から出た。向かうは警察庁だ。