技術の進歩が実感できない
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殺されるつもりはないけど、この状況を打破する方法も思い浮かばない。良くも悪くも一度集中すると時間を忘れて作業に没頭してしまうせいで、今日も私が最後の退社。時刻は…23時30分。
「ばかかよ」
定時後に作ったツールは使えるんだぜ!って上長に見せたら「いいねそれ!ドキュメント作ってよ!そうだな、再来週の会議でプレゼンして、社内の開発には取り入れていこう!」と認めてもらえた。ドキュメント…プレゼン資料はいいけどドキュメント作るの苦手なんだよな…。どのくらい詳しく書いたらいいんだろう…。大企業だから海外にも支社があった筈。英語版も作らないといけないのかな…明日聞いてみよう…。
あの贈り物が来たのが土曜日。今日は水曜日。流石にあれの後だから人の多いときに帰りたかったな…。アラームでもつけるか?
念の為イヤホンをせず明るい道を歩いて帰る。明るいからって人気があるとは言ってない。住宅街だから余計にだ
しかしまさかこうもあっさりとは思わなかった。何がって、自分が刺されるのが。
「いってー…」
住宅街のT字路。道を曲がった瞬間に襲い掛かろうとする何かに気付き咄嗟に腕を顔の前に出した。左腕に鋭い衝撃、耐えられず尻餅をつくとズルっと左腕から何かが抜かれた。相手の顔を見ようと見上げる反射でなく、突然の衝撃で落としたスマホを拾い録画モードにしたこの手捌きよ。顔を上げた時には走り去っていく誰かの後姿が闇に紛れていった。動画は碌に誰かの姿を映していないだろう。でも足音は拾えた。足音だって重要な証拠になる。科捜研の女で学んだ。
録画モードを止めようとボタンを押した瞬間ぽろっとスマホが手から滑り落ちる。左腕がすっごい痛い。黒い服だから分かりづらいけど血が結構出てる。地面に滴らないよう腕を腹に抱える。
「いたいって…これは…」
尋常じゃない冷や汗が出てくる。流石にこれは自分じゃ手に負えない気がする。人間って痛すぎると涙すら出ないんだね。幸いマンションは近い。部屋に戻らず車で夜間病院に行こう。
ガソリンスタンドで無料でもらったタオルをきつく腕に縛り付け、夜間病院へ行った。待ちの患者は一人もいないのはどう捉えればいいものか…。受付で保険証を渡そうとするより前に、血まみれのタオルを見てぎょっとした看護師さんがそのまま通してくれた。
「いや~ちょっとサクッと、はは」
「サクッてレベルじゃないから!手術するよ!!」
「え、そんなに?」
日付変わった深夜に外科手術をする日が来るとは…。めっちゃ痛かったから大変嬉しいけど、明日も会社なんだよな…。いつ帰れるんだこれ…。
手術を終え1日入院を言い渡された。怪我の具合を聞いて遠い目をしたのは悪くない。事件性を感じ取った先生に色々聞かれたが、「いやー警察沙汰面倒なんで、怪我はまあ、ただの怨恨ですよ」と言っておいた。あっけらかんと言った私に事件性がないと判断したのか、あっさり引いた。いいのかそんなんで、だから隣町がヨハネスブルグになるんだぞ。
翌日、やむを得ず会社は休んだ。腹痛ってことにしておいた。左腕はギプスだけど、ゆるい長袖を着れば分からなそうだな。利き手じゃないだけ良かったということにしておこう。暫くは500mlのペットボトルを持つのにも痛みを伴いそうだ。つらたん。
翌日は平然と出社。
「相沢さん、ここの機能なんだけど」
「はい、ああそこについて私も確認しようと思ってました。先方からの要望だとこうなんですが、恐らくこういう意図があってのことだと思うので、こちらの方法の方が効率良いと思うんです」
「そうそう、そう言ってた。あー、確かにそっちの方がいいと思うけどそれ工数結構かからない?」
「そうでもないですよ。確認時間も含めて、余裕をもって2日程あればいけるのではないかと」
「ほんと!?じゃあよろしく頼むよ。その辺り得意な人いなくてさ」
「かしこまりましたー」
一応大手のIT企業でこれだから、前世がどれだけ進んでいたか分かる。前世はIT企業に勤めてたわけじゃないけど、前世の私でもこれは分かる。あー、こんなちょろくていいのか、もっと刺激が欲しい。プライベートや物理的じゃなくて仕事的や作業的に。
どうしても殺したいらしい。そして死なない私はいっそゴキブリか。先週刺されたのは腕だったけど。まさか橋から落とされると思わなかった。
「ああ…スマホが…死んだ…」
刺されたのが先週の水曜日。流石に通報されたと思ったのか音沙汰が無く一週間経過。その一週間で私は真壁が私を恨む動機の素材集めを終えた。内容的に無くはないかなとは思うけど、私には残念ながら理解できなかった。
金曜日の夜20時。プレゼント資料とドキュメント資料は上長にOKをもらったから珍しく定時で帰った。一度帰って冷蔵庫が空っぽに絶望。忘れてたわ、何か買わないとねえや。いいか今夜はコンビニ弁当にしよ。と財布とスマホだけいつもより小さなカバンに入れて外に出た。コンビニへ行くには大きな橋を渡らないといけない。点検作業で片側通行になっていて、道路の真ん中でおじさんが誘導灯を真横にして大きなトラックを待機させていた。そのトラックを横目に歩いていた時。凄いね、あれが殺気ってやつなのかな。何か分かんないけどゾッとして思いっきり後ろ振り向いたんだ。その瞬間頭に鈍い衝撃。膝をついてしまい、その隙に抱えられポイッってされた。
「おまえさえいなければ!!」
抱えられたときに聞こえた低い声。恨みを持つ人間の声はこんなにも怖いのか。小さいころ父親に怒られたときよりも遥かに恐怖を感じた。
川の流れは速くなかったし、金づちでもなかったから少し流された後何とか川から出られた。ここからなら裏路地だけ通ってマンションに行ける。
「…あー、しんど」
頭は痛いし左腕も痛いしびっしゃびしゃだし。小学校の頃、訓練の一環で一度だけ着衣水泳やったことあるけどあの時普通にクロールで泳げた記憶がある。服着てる分確かにスピードは遅いけど、泳げなくはないんだよな。
絶対この状況で人に会うのはヤバい、特に知り合いは。人気のない道に加え街灯のない道をこそこそ歩いてたら、今度は本当に雨が降って来た。しかも割と本降り。これなら見つかっても濡れてることに何も言われない。問題はこんだけ降ってるのに何で傘も差さずゆっくり歩いてるの?ってところ。走ると頭や腕に響く。腕は一回治療済みだからいいけど、頭は不味い。何で殴ったか分かんないけど幸い血は出ていない。多分振り返った時に、奴が殴ろうとした頭のポイントから微妙にズレたんだと思う。米神辺りがズキズキするぜ。
「さすがに、いい加減どうにかしねえとなぁ…」
直接行くのは流石に死亡フラグ。かといって私の言葉を素直に聞いてもらえるとは思えない。こういう時どうするのが正しいんだ?
どうせずぶ濡れだからと水たまりも気にせず歩く。腕時計も壊れてたからどのくらい歩いたか分かんないけど、やっと部屋に付いたときは22時頃だった。
昨日殴られた所為なのか風邪をひいた所為なのか、翌日も頭痛が酷かった。おまけに熱も出している。鏡で殴られたところを見るとたんこぶになっていた。人が殺す勢いで殴ったのにたんこぶですむとか頑丈かよ。
土曜日でも診察している医者を探して部屋を出る。車で行って事故ったら話にならないので、バスで行くことにした。帽子にマスクをして顔があまり見えないようにする。
エントランスには管理人のおばさんが掃除をしていた。
「管理人さん、こんちわです。相沢です」
「あら相沢さん、やだ、風邪?」
「はは、昨日濡れちゃったもので」
「ちゃんと傘ささなきゃだめじゃなぁい。そういえば、ストーカーはもう大丈夫なの?あれから何にも起きてないみたいだけど」
確かに変な手紙は来てない。マンション付近には来てないんだろう。
「ストーカーじゃなかったんですよあれ」
「あらそうなの?でもあんなに盗撮されてたのに」
「うーんなんていうか、消化しきれなかった色々がとうとう爆発してしまった、って感じだと思うんすよ。たまたまその矛先が私だっただけで」
「それは災難だったわねぇ。いびりの磯五郎さんには相談乗ってもらった?」
「眠りの小五郎ですねー、ただの悪口になってますねーそれ」
「そうそう眠りの小五郎!」
おばさん素なのかぼけなのか分かんないんだよな。素だとは思うけど。
「あ、そういえばこの前その眠りの小五郎のいる事務所通ったんですよ」
「そうなの?どんな感じだった?」
「写真ありますよ、…あ」
忘れてた、昨日のあれで壊れたんだった。今日ついでに修理に出しに行くか…。
「昨日ので壊れたの忘れてました…」
「あらまぁ、残念ねぇ」
「直ったら見せますね」
話を切り上げて医者に向かう。鼻水や咳は無く、発熱と倦怠感、あと食欲がない。
個人院の医者に行ったら思った以上にしっかりしたところで、点滴まで打ってもらえた。一時的とはいえ熱がちょっと下がり、薬をもらってそのままスマホの修理へ向かう。そしたら修理じゃなくて買い替えになってしまった。出費がいたい…。幸いと言っていいか分からないけど、新しく選んだスマホは在庫があってそのまま手に入れられた。
バス停に向かう途中、本当に偶然だと思う。真壁を見かけた。
(昼間で人が多い。衝動的と言え流石に殺しにかかってこないでしょ。来ても直ぐに捕まる)
こっそり尾行とかでなく堂々と後を追った。やつは、なんとまあ、少年探偵団と一緒にいるではないか。なんでやねん。少年が何か言った。すると彼らはそれまでよりスローペースで歩き出した。これは尾行してるってバレたな。まあバレてもいいけど。6人は何故か米花公園へ入っていった。勿論ついていく。いっそここなら都合がいいかもしれん。
少年探偵団は真壁さんを守るかのように私の前に立った。
「さっきからお兄さんのことつけてるよね」
そういえば少年と初めて会った時は女子っぽい格好だったな。今はユニセックスな格好だから同一人物だと思わないのか?それともこの前のあの会話から、私が真壁を殺したいほど恨んでるって思ってるとか?
「うん、用事があるからね」
「ストーカーはよくねえぞ姉ちゃん!」
「僕たち、少年探偵団の前で悪いことなんてさせませんよ!」
ドヤッとふんぞり返ってる3人は可愛いね。でも知ってるよ、この子ら小学生とは思えないほどの肝と度胸があるんだろ。私がこのくらいの時は箸落としただけでゲラゲラ笑ってたぞ。前世の話だけど。
「それは悪さできないなぁ。じゃあ穏便に済ませようかな」
真壁は私が誰かまだわかっていないらしい。訝し気に私を見ている。私が昨日死んだと思ってるのかな。
「初めまして、というべきかお久しぶり、というべきか分かりませんが、改めまして、相沢夕です」
にこっと自己紹介したら、まあ真壁の顔の変化と言ったら。コップから水を落としたかのようにさっと顔色が変わった。
「おまえ…なんで…」
「真壁さん、私とちょっとお話しませんか?そんなお時間かけません」
「!お、俺はお前なんて知らない!俺は何も話すことなんて」
いやそんなあからさまじゃダメでしょうが。本当に知らないならもっと白を切れよ。真壁を無視して口を開く。
「気は済みました?それとも、まだ気は済んでいないですか?」
「な、何の話だ!」
「流石に私だって人間なもので、結構精神的に来てるんですよー。ここでもうやめて欲しいなって」
「やめる?は?俺がお前に何したってんだ!」
ここまで狼狽えると怪しすぎでしょ。なんか益々自分が悪役みたいだ。
「今私がいなくなっても、過去も事実も変わらない。真壁さん、あなたの行動は自分で自分の価値を下げてるものだと思いませんか?あなたは、それで結局どうしたいんですか?」
あれだけ吠えていたのに真壁は言葉を詰まらせた。子どもたちは完全に蚊帳の外。会話についていけないんだろう。
「私がそう言ったところで聞き入れてもらえないんでしょうね。それでも真壁さんが、“そう”したいのであれば、それをしたことによってその後自分がどうなるのか、考えてはいかがでしょうか?」
「お前に…お前に何が…」
「ここにいる小さな探偵さんたちが、案外解決してくれるかもしれませんよ?」
子供たちをチラッと見る。少年はこの前の会話と合わせて推理してるんだろうな。さて、私はそろそろ体調的にまずいので帰る。
「真壁さんの気持ちは勿論分かりませんよ、だって違う人間ですから。でもそれなら、真壁さんは今の私の気持ちも分かりませんよね?」
「うるせえ!!それで正論言ったつもりか!!」
あー、そううまくいかなよな。真壁は子供たちを押しのけ私に殴りかかって来た。もろ顔に入りましたね、ええ。左頬がとても痛いです。唇切れた。そんで思いっきり倒れた。
「ハッ、どうせ今まで全部成功してきたんだろ?お前が、お前さえいなければ!!」
こちとら怪我人病人だぞ、そんな躱せるわけないじゃんか。
「キャー!!」
突然人が殴りかかってたらビックリするよね、歩美ちゃんが叫んだ。それすら耳に入らないのか男は馬乗りになってこようとして、誰かが止めに入った。
「何してるんですか!」
あむろさーん!安室さんじゃないですかー。イケメンに守られるなんて最高かよ。暴れる真壁を安室さんは華麗に取り押さえた。警察を呼ぼうとする少年の手を掴んだ。
「お姉さん大丈夫!?」
「おーこの前の少年、3度目だね。警察は呼ばなくていいよ」
頭痛に倦怠感、顔面殴られてふらふらだよ。ゆっくり起き上がって服に着いた砂を払う。取り押さえられている真壁を見下ろして堪え切れなかったため息を吐いた。
「満足したかよ、あ?お前、自分がしてることがどういうことか、考えたことねえだろ。言っとくけど警察に言うつもりも訴えるつもりもねえから。それで楽なのはお前だろ」
その言葉を聞くと真壁はくっそぉと言いながら泣き出した。いや泣きたいのは私の方だから。
戦意喪失の真壁を安室さんはゆっくり離した。真壁は乱暴に涙をぬぐいながら公園から出てった。
「お姉さん殴られたところ痛くない?大丈夫?」
「なんだよあいついきなり殴ってきて!」
子どもたちがさっきとは打って変わり私を心配そうに見上げていた。
「あっはは、大丈夫、ありがとね」
若干声が震えてしまったけど子供たちは気付いていない。聡いのが3人いるけどね。
「怖がらせてごめんよー。今度、何か奢るよ。来週の土曜15時に、ポアロって喫茶店分かるかな」
「分かるよ!私たちよくそこに行くんだ!」
「安室さんはポアロの店員さんなんですよ」
「じゃあそこで。今日は流石に帰るよ。君たちも早く帰るんだよ」
「送ります」
「僕も心配だから送るよ!」
「あははー、お気遣いありがとうございます」
深呼吸をして少年と安室さんを見る。心配してます、って顔してる。
「今頑張って堪えてるんで、優しくされると結構ヤバいんでお気持ちだけで大丈夫です」
「…何も、我慢する必要はないんですよ」
「いやいや、人前で泣くの嫌いなんで我慢しますよそら。少年探偵団諸君、土曜日また会おうではないか」
じゃあね~と頗る軽く挨拶して私も公園を出る。家に帰るまでの道中、尾行されていたのには気付いたけど気に留める余裕はなかった。足元が覚束なくてふらふらしながらだけど何とか帰ってこれた。
勿論その夜は枕を濡らしたさ。写真が来たときから見て見ぬふりしてた。一度死んでるから死ぬ恐怖は分かってる。安堵と抑えていた恐怖からくる涙を流しながらいつのまにか寝落ちしていた。