禁書ノ記憶
美術館からの脱出
紫の間
この状況下で紫色ってのは少々質が悪い気がしなくもない。階段を降りお配った場所にある扉を無視し進んでいく。降谷さんはもう「あっちは行かないのか?」とは聞いて来なかった。これまで何度か「あの部屋は無視していい」と言ったから、あの部屋もその類と思っているのかもしれない。若しくは後でいく部屋。今回は後者だ。
立ち入り禁止ロープの向こうは行く必要が無い。そこすらスルーしてコの字型の通路を曲がっていく。
「降谷さん、ミルクパズルできます?」
「やったことないけど、ピースの形で合わせていけばいいだけだろ?」
「簡単に言いますね…」
正直できる自信があまりない。パズルと言えば絵がありきのものと先入観があるせい、ってのもあるかも。今度試しにパズルを裏返してやってみようか。まずはパズルを買うところからか。
さらに進み鏡を華麗にスルーし奥にある扉の前に立つ。ゲルテナ展覧会のポスターと、そしてこの“裏の美術館”へ来るために入ったあの絵が描かれたパネルと、文字を入力するスペースがある。
「“深海の世”」
「何度も思いますがよく覚えてますね」
「記憶力には自信があるからね」
しんかいのよ と打ち込むと鍵が開く音が聞こえた。
入ると赤いインクを切り裂いたような絵画が真っ正面の壁を飾っている。両脇には本棚が置かれている。左側の本棚へ進み、他の本に比べて異質なピンク色の表紙の本を手に取って開いてみた。タイトルは随分ド直球だ。
「性行為」
「!!??」
「私はその 艶めかしく 美しい乳房に 指を滑らs」
「こんな時何を読んでいるんだ!!」
ゴツンと頭に重い一発を食らう。思わず手放した所謂官能小説を降谷さんは本棚に戻した。
「だいたい何で美術館に、というか音読するな!!!」
「思わず」
「小学生か!!」
「小学生はそもそも“艶めかしい”も“乳房”も読めいったい!!」
「もう黙れ!」
次言ったら花びら減りそうだ。顔を赤らめることはなく降谷さんは怒りマークを額に受かべながら「恥と言うものを覚えろ」と割とガチで怒って来た。何かすみません。
全くとプンスコ怒りながら降谷さんは例の絵の前に立とうとする。慌ててその腕を掴んだ。
「この後SAN値チェック入ります」
「SAN値?」
「あー、語源はSanityだったかな」
「正気度ってことか。分かった」
念の為腕を掴んだままにしておくと「こっちの方がいい」と手を繋ぐ形になった。震え無し、体温も低くない。
例の絵…「決別」を見上げる。誰と誰の決別か。イヴとギャリーか、将又…。
パチンと電気が突然消えた。息を潜めている降谷さんに「この後のがアレ何で」と告げると「声は出して大丈夫なんだな」と幾分か警戒を解いた声が返って来た。
「さて、明かり付けますけど心の準備はいいですか?」
「いつでも来い」
手を繋いでいる反対の手でポケットをまさぐる。今まで持ったことの無いジッポライターを取り出し、「いきますよー」と声をかけ火をつけた。と同時に激しい風音が聞こえ、消えていた電気がパッとついた。
たすけて
いやだ
やめて
こわい
しにたくない
「こっちのセリフだってのって感じっすよね」
「こんなにもクレヨンの文字を怖いと感じたことはないな」
血文字ならそれはそれで恐怖だけど、拙いひらがなで書かれたクレヨンの文字も中々にえぐい。ライターをポケットにしまい手を繋いだまま部屋を出た。
部屋を出ると楷書体だか明朝体だか分からないけど、壁と床に渡ってありがちな注意事項が赤い字で淡々と描かれていた。「お客様に申し上げます。投函内は火気厳禁となっております。マッチ、ライターなどの持ち込みはご遠慮くださいますようお願いいたします。万が一、館内でそれらの使用をスタッフが発見した場合、」と不吉に区切られている。
「発見した場合締めだしますなら全部解決なんですけど」
「この流れなら間違いなくそうじゃないだろうな。SAN値チェックの結果はどうだ?」
「成功、ですかね」
手を離し通路を歩く。途中から赤いインクの足型が点々とどこかへ続いていた。
「降谷さん」
「なんだ?」
彼女…メアリーとの合流が近づいている。もしいなければそれはそれでいいんだけど、知る人間であればその人が本の世界(こっち)の人間か現実世界(あっち)の人間か判別する必要がある。私が知ってる人間だと幾分かやりやすいんだが…可能性として高いのは上司か風見さんだな。
「例え何があっても私を信じて欲しい、いや、信じろ」
「…俺に命令するとは随分偉くなったな?新米さん」
こつんと頭を小突かれ見上げる。静かに笑った降谷さんは「信じるさ」と簡単に言ってのけた。
「信じてくれること、信じてますからね」
頼むから私が初めて殺した人間にならないでくれ。
扉を開け中に入った瞬間誰かにぶつかったたららを踏みはしたが尻餅をつくことはなく、ぶつかった鼻を抑える。やはり誰かいたか。
「うわっ、悪い!」
「!!!????」
「いえ、こちらこそ」
降谷さんと同じくらいの背丈だろうか。黒い短髪で顎に少し髭が生えて入る男性。私たちと同じくスーツ姿だ。人のよさそうな顔つきをしている。
「って、降谷じゃないか!!」
「…な、んで…ここに」
死人を見たかのような驚きっぷりの降谷さんを訝し気に見上げる。ただならぬ様子の降谷さんに相手の男性も絶句しながら「それはこっちのセリフだ」と告げた。どうやら互いに顔見知り、以上の関係、らしい?
「…お二人は知り合いで?」
「そうだけど、君は?」
降谷さんを名指しで呼んだってことは降谷さんを知る警察関係者か、もしくは友人関係だろう。本名を言っても問題ないっちゃない、が…。念には念を越したことはないだろう。
「私は降谷さんの部下の黒須と言います」
「降谷の部下?そんな名前いたかな…」
「さ、いきん来たんだ、黒須は」
降谷さんは上手いこと私に話を合わせてくれた。どっちだ、この人はメアリーか?それとも同じく巻き込まれた人?
「降谷の部下ってことは同じ公安かゼロの人間だよな。俺は警視庁公安部の諸伏だ。降谷とは同期で、幼馴染なんだ」
よろしく、と自己紹介した諸伏さんは私が思っていた以上に降谷さんの近しい人で、私にとっては全く知らない人間だった。その上警視庁の公安部、風見さんと同じ部署の人間。困った、これじゃ下手に探れないじゃないか。なんせ同じゼロでも降谷さんの潜入内容も仕事も私は全く知らないのだから。
対する降谷さんは落ち着きを取り戻し、「どうしてここに」と改めて聞いた。
「あの時のあれは、ふりだったんだ」
「ふりだと?」
「降谷は知らないかもしれないけど、シェリーが作ってる薬知ってるだろ?あれの失敗作の中に“仮死状態”にするものがあったんだ。それをくすねてあの時飲んだ」
仮死状態?薬?
「じゃああの血はどうしたんだ」
「服の下に血糊を仕込んでおいたんだ。…実はライの弱みを握っててさ、あの時協力させた。まさか降谷が追ってくるとは思わなくて…」
血糊?ライ?
「何でライなんだ、あんなメール送って…俺がどんな気持ちで…」
「俺を売った人間が内部にいるらしい。だから、ごめん」
グッと泣きそうになるのを堪えた降谷さんは馬鹿野郎と諸伏さんの胸をポスッと殴った。諸伏さんはごめんなとまた謝る。正直言おう、話の半分以上が理解できていない。要するに?諸伏さんは“表向き死んだ”ことになってる、降谷さんもそう思っていたってこと?怪しすぎる、と思うのは私だけか。
「内部の裏切り者を探している途中で、気付いたらここにいたんだ。2人は?」
降谷さんは私に代わりかい摘まんでここにいる経緯を離した。私が黒須と名乗ったことを考慮してか、“赤の司書”ではなく居合わせた部下の1人としてここに来てしまったと言う。私と降谷さんの間に上司と部下の関係が出来てしまったということは、私から降谷さんに指示出しが出来ない。それは非常に不味い、特に諸伏さんが“何”なのか分からない以上危険すぎる。降谷さんは諸伏さんを信じてるのかどうなのか…。同期で幼馴染を態々言ってくる時点で私としては怪しさがあるんだけど、逆にそのくらい親しい人間、付き合いの深い人間だと分かると降谷さんが諸伏さんを私以上に信じる可能性が極めて高い。
「実はこの妙な美術館から脱出するホラーゲームがあるんです」
私が降谷さんに指示出ししてもおかしくない状況を作り出さなければ。
「ホラーゲーム?」
「はい。フリーゲーム…無料で遊べるゲームだったのでCMとか有名企業がアピールしていたものじゃないので、一般的な知名度は低いかと思います。そのホラーゲームと状況があまりにも一致していたので、僭越ながら降谷さんへ指示とも呼べる情報を伝えてここまで来ました。自分はそのゲームをやりこんだことがあったので」
「そうなのか?」
諸伏さんの確認に降谷さんは自然に「そうだ」と答えた。良かった、私の意図が伝わっている。そして嘘を吐いてくれるってことは、まだ完璧に諸伏さんを信じ切っていない。表向き死んだ、らしいけど本当にそれは表向き?
「諸伏は薔薇持ってるのか?」
「薔薇…ああ、これか」
ポケットから出したのは黄色い薔薇。花びらの数は降谷さんと同じ5枚。
「薔薇と命がイコールみたいな文面見つけて、念の為持ってきたけど」
「その通りだ。その花びらが無くなると死ぬらしい」
「マジかよ…」
「肉体的ダメージを受けなければポケットに入れていても花弁は千切れないようですね」
「何も考えずにポケットに入れてたな…降谷と黒須のそれ、いいな」
諸伏さんは私たちを真似て胸ポケットにバラを挿した。降谷さんが「黄色似合わないな」と言うと「降谷は似合ってるな」と親し気なやり取りをしている。
「俺たちは向こうから進んで来たんだが、諸伏はこの先から来たのか?」
「いや、そこで目を覚ましたばかりなんだ」
「それじゃあ向こうはまだ行って無いのですね」
「そうだな。進むなら向こうになるのかな」
3人並んで紫色の通路を進む。諸伏さんの視線がこちらに向いていない時、降谷さんが私を見てきた。その瞳には困惑の色が伺える。私は口パクで「要警戒」と伝えた。
角を曲がり突き当りの部屋は鍵がかかっているのか開かなかった。「嫉妬深き花」の絵画を通り過ぎいよいよあの部屋へ足を踏み入れる。
「!?」
正面の壁の絵画、そして左右に並べられている“それ”に息を飲んだ。降谷さんと諸伏さんは大したリアクションをしていない。SAN値チェック入ってもおかしくないぞ。
「随分リアルだな」
感心したように一体一体じっくり見る降谷さんと諸伏さん。じっくり見るものじゃない。しかし降谷さんの表情に“恐怖”も“不安”も一切無い。
「…そうですね」
この部屋だけゲームを間違えているかのような世界観の違う景色なのに、降谷さん、あなたの目にはどう映ってるんですか。
「永遠の幸福」というタイトルの絵画、それを見上げた降谷さんは至って普通の表情をしている。
「降谷もやっぱこういうの憧れるか?」
「ないわけじゃないけど、今はそういうつもりはないな」
「その時は呼んでくれよ?」
「…そうだな。こういうのはゆ…黒須の方が憧れ強いもんじゃないか?」
「はぁ!?全くないですよ!!」
「そんな全力で否定しなくても…」
誰もこんなん憧れないだろ。ふざけんな、やっぱり降谷さんの見てる世界は違うんだ。
絵の中には足を捥がれた男がベッドに横たわっている。それに寄り添うように女が恍惚とした表情で足の捥がれた男の胸を撫でている描写。男の表情は額縁から見切れていてわからない。部屋の左右に置かれているのは、いずれも足を捥がれた男女の生々しい等身大の人形。両腕は手錠を掛けられ、天井から吊るされている。
どこかで聞いたことあるような話だ。その人を自分のものにする為、外の世界へ出さないよう足を捥ぎベッドに縛り付け監禁する。ストックホルム症候群、と言ってあっているか分からないけどやがて被害者は加害者の行動を全て肯定する。そうして2人だけの世界が出来上がるのだ。
服を着ているだけマシかとか現実逃避をする。降谷さんの目にはどう映ってるんだろうか。
目ぼしいものが無いと部屋を出る。「嫉妬深い花」の前を通ったその時だ。床が大きく揺れた。
「危ない降谷!」
床から茨の様なものが次々と突き上げてくる。諸伏さんは降谷さんの腕を強く引き、私は同じ方向へ行くには行く手を阻まれ下がるしかなかった。
「降谷さん!大丈夫ですか!?」
「あぁ、諸伏、ありがとう」
「怪我が無くて良かった。それよりこれ、どうすんだ?」
生え出た茨は格子のように床から天井へ伸びている。軽くノックしてみるが簡単に壊れそうな音は響かない。
「下手に美術品を壊すと出られなくなる可能性がありますから…仕方ないですが二手に分かれるしかないですね」
「壊したら花びら減るか?」
「恐らくは」
減るどころか死ぬ可能性も無きにしも非ず。
「先ほどの部屋から他の道へ行く方法があるはずです。お2人は先ほど行けなかった扉から先に進んでみてください」
「黒須、大丈夫、なのか?」
「私は大丈夫です。そうだ降谷さん、攻略のヒントです。“三角のオブジェを下に落としてください”、それと“一番重たい頭を床に落としてください”」
「重たい頭、だな。分かった。…健闘を祈る」
行こう、諸伏
ああ
一瞬振り返った諸伏さんの目の奥に嫉妬の色が見えた気がした。